修理工房見学会のご報告

 去る8月25日(土)に、当館の所蔵する横井金谷(よこい・きんこく)「洛東春興図」の修理を行っていただいている工房さんで、見学会を開催いたしました。今回のブログでは、その見学会の様子を少しお伝えしたいと思います。

 8月23日の夜から24日の朝にかけて、滋賀を含めた近畿地方では台風20号の接近があり、無事に見学会が開催できるかヒヤヒヤしていましたが、当日は雨も降らず、また酷暑過ぎず、無事に皆様に修理中の作品や工房の様子を見学いただけてホッとしました。

 工房さんでは、まず客間の方で、今回の修理の趣旨や修理作品の概要について、当館学芸員から簡単にお話いたしました。

 現在修理中の横井金谷「洛東春興図」は、滋賀県立近代美術館平成27年度に愛知県の個人の方から寄贈を受けた作品です。ご寄贈いただいた当初から作品の状態が悪く、これまで展示公開することが困難な状況でした。この度、年度末に横井金谷の展覧会を開催することとなり、その展覧会に向けて本作品を修理することが叶ったのは大変喜ばしいことと思っています。「洛東春興図」は、画面の右上に「洛東春興/金峰熊野駈祓供奉/斧行者金谷写于時/辛未(かのとひつじ/しんび)暮冬」と書いてあることから、文化8年(1811)の冬に描かれたことがわかる作品です。「洛東春興」とあることから、描かれた場所は京都の東山界隈と考えられます。様々に行き交う人々の様子が生き生きと描かれた優品です。文化8年は、金谷がまだ名古屋を拠点にしていた時期であり、本作が愛知県に伝わっていたというのも納得ができるところです。
 美術館・博物館の役割として、収集した資料を適切に保管していくことは、博物館法にも定められているところです。現在の文化財修理全体の流れとしては、作品のオリジナルの部分には手を加えない、というのが大原則としてあります。それは、100年後、200年後の修理の際に、どこの部分がオリジナルでどこの部分が後から手を加えた部分かが解るようにするため、また、よりより修理技法が生まれた時に、オリジナル以外の部分をきれいに除去できるようにするためです。

 修理の方針や作品の概要についてお話したところで、場所を工房の方に移し、いよいよ横井金谷「洛東春興図」とのご対面です。

 まずは今回修理を行っていただいている表具師さんから、屏風の修理について、あるいは今回の修理で特に大変だった事などをお話いただきました。
 現在は新しい下貼に本紙と裏地を貼り、乾かしているところ、とのことです。旧の下貼は紙蝶番(かみちょうつがい)も切れてしまい、また歪みも出ていることから、今回は下貼を新調していただきました。(学芸員が指さしているのが旧の下貼です。)

 ところで皆さんは、屏風がどのような構造になっているかご存知でしょうか。屏風の下貼は、木枠があり、その上に紙を何枚も貼り合わせて作ります。その上に本紙や裏地を貼り、縁(へり)に裂(きれ)を貼り、襲木(おそいぎ)を付け、必要があれば飾り金具も付けます。
 今回、縁に使用できる裂を何種類かご用意いただいたので、実際に色々な裂を当てていただき、それによって作品の見え方がどのように変化するのか、というのも見せていただきました。

 最終的にどのような裂を使用したのかは、ぜひ年度末の横井金谷展にてお確かめいただければと思います。

 工房内では、今回の修理で実際に使用した材料もご用意いただきました。

 左手前は間似合紙(まにあいがみ/泥を混ぜた雁皮紙)、左奥は、三千本膠、布海苔、新糊、右側は今回の屏風の下貼で使用した紙です。「洛東春興図」は、間似合紙に描かれており、泥が混ざっていることから端が捲れやすく、今回の修理でも捲れてしまった箇所の処理が大変だったとのことです。また、今回の修理から、「洛東春興図」が過去3回程修理を受けた痕跡があることが解りました。制作されてからおよそ200年、何度も修理をされながら受け継がれてきた本作を、我々が次の世代へと適切に保存しながら受け継いでいきたいと思います。

 表具師さんからの話が終わった後は、自由に作品や材料を見ていただきました。皆さん熱心にご覧下さり、また色々と質問もいただき、有意義な時間となりました。


 
 
 ご参加いただいた皆さまにとって、また、このブログを読んでくださったあなたにとって、文化財の修理について、また文化財を適切に次の世代に伝えていくことについて、考えていただく契機となれば幸いです。
 今回修理いたしました横井金谷「洛東春興図」は、冒頭でもお伝えしたように、年度末・来年3月から草津市草津宿街道交流館にて開催予定の横井金谷の展覧会で展示を計画しています。展覧会情報につきましては、確定次第当館ホームページに掲載いたしますので、しばしお待ち下さい。(Y.O)

2018年08月28日のツイート

2018年08月23日のツイート

月刊学芸員8月号のご報告

 8月4日(土)にコラボしが21にて、滋賀近美よもやま講座「月刊学芸員」8月号「KINKOK WORLD 文人画の魅力と味わい」を開催しました。講座の様子を少しお話いたします。

 近江国栗太郡下笠(現在の草津市下笠町)出身の画僧・横井金谷(1761〜1832)について、以下の3つの観点からお話をさせていただきました。
① 金谷の生涯について
与謝蕪村との関係について
文人たちとの関係について

 金谷の生涯について、特に金谷自身が記したと考えられる「金谷上人御一代記」の記述と、年記の入った作品とを照らし合わせ、金谷の生き様を概観しました。「金谷上人御一代記」は、金谷の半生を記した全7巻にわたる画巻ですが、残念ながら金谷自筆本は未発見です。草津市所蔵本、琵琶湖文化館寄託本、名古屋市鶴舞中央図書館所蔵本など、いくつかの写本が知られています。今回は草津市所蔵本の画像を底本にしてお話をしました。

 当館が所蔵している作品の中では、「吉野熊野真景図」(文化3年/1806)が金谷の生涯の中でも重要な作品です。金谷は文化元年(1804)に醍醐寺三宝院門跡高演法親王の斧役として吉野・金峰・大峰・熊野75里を巡る「大峰入り」をします。金谷は斧役の功績によって「法印大先達」の称号と「紫衣」を授かります。この「吉野熊野真景図」は、大峰入りの記憶もまだ新しい時期に、金谷が実際に目にした吉野や熊野の景色を描いています。


 右隻には「深芳野真図/金峰熊野三山奥駈供奉/斧行者大先達大宝院金谷写」、左隻には「熊野玉置山真景/供奉斧法印金谷写/于時丙寅季冬」と書いてあります。


 金谷が実際に目にした吉野や熊野の山々の景色を、その実感も込めて描いていることが良く解る作品です。よく見ると小さく山伏の姿も描かれています。

 金谷は与謝蕪村に私淑したことから「近江蕪村」の名でも呼ばれています。金谷が蕪村を敬愛していた例として、草津市中神コレクションの「石図」「波図」(蕪村の句「柳ちり清水かれ石ところところ」「春の海終日のたりのたりかな」を引用しています)、蕪村の「奥の細道図巻」(京都国立博物館蔵、重要文化財)をそのまま写した「倣蕪村奥之細道図」(京都国立博物館蔵)、2015年にサントリー美術館MIHO MUSEUMで開催された「若冲と蕪村」展において約90年ぶりに発見された与謝蕪村「蜀桟道図」(LING SHENG PTE.LTD蔵)を写した金谷の2点(「蜀桟道図」ファインバーグ・コレクション蔵、および「蜀道積雪図」大津市歴史博物館蔵)などを紹介しました。
 ところで、金谷はなぜこのように蕪村作品を写すことが出来たのでしょうか。
 金谷は、その生涯のうち約20年を名古屋で過ごしており、井上士朗をはじめとした尾張俳人たちと様々に交流をしていました。井上士朗は、与謝蕪村がその手紙の中で「尾張名古屋は士朗でもつ」とうたう程、俳諧では著名な人物であり、蕪村とも交流がありました。蕪村の「奥の細道図巻」は井上士朗と加藤暁台(井上士朗の師)宛の書簡の中に、近日中にそちらに送る、と出てくることから、名古屋にあった時期があることが解ります。また、蕪村の「蜀桟道図」も付属する書簡から名古屋に送られた作品であることが判明しています。このことから、金谷は名古屋において、蕪村の作品を直接見る機会を得、それらの作品を写していると想定されるのです。

 90分の講座でしたが、みなさん熱心に聞いてくださいました。ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。また、今回の講座から、県立図書館とコラボして、講座に関連する図書を会場でお手にとっていただけるよう配架するようにしました。


「書籍が置いてあって良かった」などのお声をいただくことができました。次回以降の「月刊学芸員」でも引き続き本の配架をしていきますので、どうぞお楽しみに。

 ところで、平成27年度に当館に寄贈された横井金谷「洛東春興図」は状態が悪く今まで皆さまに見ていただく機会を設けることが出来ずにいました。本年、この作品を修理することが叶い、現在、修理作業の真っ最中です。この「洛東春興図」の修理途中の様子を、修理工房さんにお邪魔して見学させていただく会(申し込みは締め切りました)も開催いたしますので、またブログ等で見学会の様子をレポートしたいと思います。

 知れば知るほど面白い、横井金谷の世界を、今後も折に触れてご紹介していきたいと思います。(Y.O)

2018年08月07日のツイート

2018年07月31日のツイート

2018年07月25日のツイート