常設展示「志村ふくみと滋賀の工芸」の見どころ紹介(1)


ただ今開催中の日本画・郷土美術部門の常設展示「志村ふくみと滋賀の工芸」は、滋賀県近江八幡市出身の染織(紬(つむぎ)織り)の人間国宝作家である志村ふくみを中心に、滋賀県ゆかりの工芸作家たちの作品をご紹介する、春恒例の展示です。今回からこのブログでも、本展示の見どころを少しずつご紹介してゆきます。まずは展示のタイトルにも名前が挙がっている人気作家、志村ふくみの作品から。


志村ふくみは1924(大正13)年に滋賀県近江八幡市で生まれ、昭和30年(1955)に染織の道を志し、郷里の近江八幡で独自に研究を始めました。昭和32年の第4回日本伝統工芸展に初出品で入選して以来、染織作家としてひたむきな創作活動を続け、1990(平成2)年に国の重要無形文化財保持者 (人間国宝)の認定を受けました。古くから伝わる縞(しま)や絣(かすり)など平凡でありふれた織り文様と、植物染料による染め糸を巧みに組み合わせることで、庶民の普段着であった紬織りの着物を芸術作品の域にまで昇華せしめたとして、その努力と功績を高く評価されています。そして現在もとどまることなく、新たな作品制作に励んでおられます。志村の生み出す作品の魅力は、自然界の植物から丹念に採取して絹糸に移し替えた、豊かな色彩のハーモニーにあります。特に野山から採取した草木で糸を染めることを「草木の抱く色をいただく」と表現するほど、自然に対して純粋で素直な創作姿勢をとり続けているのが特徴です。
当館は寄贈などにより、志村ふくみの紬織り着物を約100点所蔵しています。今回の展示ではその中から、最新作であり志村のライフワークとも喚べる「源氏物語」シリーズ15点をすべて展示し、併せてはぎれを用いたコラージュによるモダンでユニークな屏風作品、それに絹の染め糸などの参考資料2点を展示しています。なお展示スペースの関係で作品は2期に分けて展示し、会期途中で展示替えを行ないますのでご注意下さい(前期:5月13日(日)まで。後期:5月15日(火)─6月24日(日))。

今回展示している源氏物語シリーズは、志村が10年ほど前(平成10年頃)からライフワークとして取り組んでいる最新のシリーズです。80歳を目前にした志村が源氏物語シリーズの制作を思い立ったのは、嵯峨野にある彼女のアトリエの近くの清涼寺(嵯峨釈迦堂)境内に、光源氏のモデルになったといわれる源融(みなもとのとおる)の墓所があることに気がついたのがきっかけであったといいます。作品には源氏物語54帖のそれぞれの題名を元にしたタイトルが付けられていますが、必ずしも源氏物語のストーリーを表そうとしたものではありません。タイトルに触発されながら、イマジネーションをたくましくしてその言葉が持つ雰囲気を紬織りならではの抽象的な織り柄で表したものと言えます。けれども作品をよく見ると、物語の内容に沿った景色や登場人物の心の動きまでもが見事に表現されているように感じられます。
作品は第1帖からストーリーを追って順に作られているわけではありません。あくまで志村の興味に沿ってばらばらな順序で作られています。ですから鑑賞する側も、必ずしも源氏物語のストーリーには縛られず、タイトルがかもし出す古風で典雅な日本の美意識に酔いしれながら、作品の世界に身を委ねるのが良いでしょう。今回の記事では、前期に展示される7点の作品をご紹介いたします。紹介の順序は源氏物語のストーリー順ではなく、作品の制作順です。



「薄雲」(1998年・源氏物語第19帖)
タイトルは源氏物語の中盤、父桐壺帝の女御で光源氏の初恋の人であった藤壺が亡くなり、悲哀の中で光源氏が詠んだ和歌に基づいています。夕日の差す山々にたなびく薄雲のはかなげな雰囲気を、見事な色彩のグラデーションで表現しています。白や茶、紫系統の色彩の中に巧みに緑や藍色の糸が組み入れられていて、色彩の深みを増すのにひと役買っています。



「若菜」(1999年・源氏物語第34帖)
「若菜」は源氏物語の第二部の幕開けを告げる最長の帖で、光源氏の兄朱雀院の娘・女三宮光源氏への降嫁と、女三宮に思いを募らせる内大臣の息子・柏木を中心として登場人物の運命の変転が描かれる重要な箇所です。タイトルは光源氏40歳の祝いの席で養女の玉鬘が若菜を差し出し、それに対して光源氏が返した和歌に基づいており、健康で若々しい若菜の生命力を象徴しています。本作品も鮮やかな緑色が特徴的で、縦方向に互い違いに行き交う矢絣(やがすり)文様が勢いよく伸びる若菜の生命力を見事に造形化しています。まだらに染め分けた糸を織って産み出す絣(かすり)模様は古くから紬織りに使われてきた伝統的な文様ですが、志村の手にかかると新鮮なデザインに変わってしまいます。



「篝火(かがりび)」(1999年・源氏物語第27帖)
タイトルは光源氏が養女の玉鬘(かつて光源氏が愛した儚げな女性・夕顔の遺児)に寄せる恋情を、篝火に例えて詠んだ和歌に基づいています。作品は秋の夜を思わせる落ち着いた海松茶色の縞模様と、篝火を連想させる熱く火照るようなオレンジ系のグラデーションとが幾度も繰り返される構成になっており、光源氏の熱い思いと、父と思って慕っていた光源氏からの告白に困惑する玉鬘の心情が、巧みに映し出されているかのようです。



「葵(あおい)」(1999年・源氏物語第9帖)
タイトルは光源氏の最初の正妻で、一粒種の夕霧を出産するも嫉妬に狂う六条御息所の生霊に苦しめられ早世する女性・葵の上に基づいています。正妻でありながら光源氏の寵愛に恵まれず、死の直前になってようやく夫と心を交わすことができた薄幸の女性の、平凡かつ慎ましやかでありながら深い女性的魅力に富んだ彼女の姿を象徴するかのように、この作品も若緑色を基調とした清楚な色彩の中に、茶や紫の巧みな混色が魅惑的な奥の深さを作り上げています。



「橋姫」(2000年・源氏物語第45帖)
光源氏の死後の出来事を描いた源氏物語第三部のうち、光源氏の異母弟・宇治八の宮の三人の娘と、光源氏の息子(実は柏木と女三宮の不義の子)薫との関係を描いた宇治十帖の、始まりを告げるのが「橋姫」の帖です。橋姫は橋の守り神で、美しいが嫉妬深いとされる女神のことで、源氏物語では薫が宇治八の宮の長女・大君を橋姫に例えて歌を詠み、募る恋の想いを訴えます。この作品でも蘇芳(すおう)をはじめとする赤い染料がふんだんに用いられて、薫の想いが象徴されているかのようです。けれども作品でいちばん目を引くのは、巧みに染め分けた糸で作られた、身頃を稲妻状に二つに区切る鮮やかな斜めの直線です。宇治川にかかる橋を象徴しているのか、それとも薫と大君のすれ違う想いを象徴しているのか、極めてドラマチックな処理が施された斬新なデザインだと言えます。



「明石」(2000年・第13帖)
右大臣の娘・朧月夜の朱雀帝への入内が、光源氏との関係が露呈したことで取り止めとなり、懲罰を恐れる光源氏は都を離れた須磨への隠遁を決意します。作品は都びとには淋しい須磨の地の、美しい海の景色を描写的に捉えたものとなっており、糸を途中で別の色の糸に繋ぎ換える「繋ぎ糸」の技法が見事に生かされて、打ち寄せる波の様子が見事に表現されています。白い地の中に数センチほどの長さにわたって藍系の横線が見えている部分が繋ぎ糸で、糸を繋いだ結び目の部分が小さな玉になっていることがあるのでそれとわかります。作者の自然観察の目の確かさが実感できる完成度の高いデザインです。



「賢木(さかき)」(2000年・第10帖)
賢木は神事に使われる榊(さかき)のこと。生霊となって光源氏正室である葵の上をとり殺してしまったことを知った六条御息所は己を恥じ、光源氏への想いをきっぱりと諦めて、伊勢斎宮となった娘とともに伊勢に下ります。タイトルは光源氏との別れの際に秋深い野の宮で二人が互いに詠んだ和歌に基づいており、恋愛など御法度の神聖な場所を象徴するサカキの枝を小道具に使うことで、別れを惜しむ二人の感情が控えめに表わされています。この作品でもやはり黄色を基調とした落ち着いた色彩が特徴的で、晩秋のしんみりとした空気がよく表わされています。


以上、前期に展示される7点の作品をご紹介いたしました。後期(5月15日(火)から)に展示される8点の作品は、改めて紹介することにいたします。


■常設展示「志村ふくみと滋賀の工芸」 4月3日(火)−6月24日(日)
※志村ふくみと森口華弘の作品は、会期中に展示替えが行われます。前期展示:5月13日(日)まで。後期展示:5月15日(火)から)

観覧料(共通):一般 450円(360円)、高大生 250円(200円)、小中生 無料 ( )内は20名以上の団体料金。
※現代美術美術の展示「《縦》と《横》」(4月3日(火)−6月24日(日))も同時にご覧いただけます。
※企画展の観覧券で常設展もご覧いただけます。