月刊学芸員8月号のご報告

 8月4日(土)にコラボしが21にて、滋賀近美よもやま講座「月刊学芸員」8月号「KINKOK WORLD 文人画の魅力と味わい」を開催しました。講座の様子を少しお話いたします。

 近江国栗太郡下笠(現在の草津市下笠町)出身の画僧・横井金谷(1761〜1832)について、以下の3つの観点からお話をさせていただきました。
① 金谷の生涯について
与謝蕪村との関係について
文人たちとの関係について

 金谷の生涯について、特に金谷自身が記したと考えられる「金谷上人御一代記」の記述と、年記の入った作品とを照らし合わせ、金谷の生き様を概観しました。「金谷上人御一代記」は、金谷の半生を記した全7巻にわたる画巻ですが、残念ながら金谷自筆本は未発見です。草津市所蔵本、琵琶湖文化館寄託本、名古屋市鶴舞中央図書館所蔵本など、いくつかの写本が知られています。今回は草津市所蔵本の画像を底本にしてお話をしました。

 当館が所蔵している作品の中では、「吉野熊野真景図」(文化3年/1806)が金谷の生涯の中でも重要な作品です。金谷は文化元年(1804)に醍醐寺三宝院門跡高演法親王の斧役として吉野・金峰・大峰・熊野75里を巡る「大峰入り」をします。金谷は斧役の功績によって「法印大先達」の称号と「紫衣」を授かります。この「吉野熊野真景図」は、大峰入りの記憶もまだ新しい時期に、金谷が実際に目にした吉野や熊野の景色を描いています。


 右隻には「深芳野真図/金峰熊野三山奥駈供奉/斧行者大先達大宝院金谷写」、左隻には「熊野玉置山真景/供奉斧法印金谷写/于時丙寅季冬」と書いてあります。


 金谷が実際に目にした吉野や熊野の山々の景色を、その実感も込めて描いていることが良く解る作品です。よく見ると小さく山伏の姿も描かれています。

 金谷は与謝蕪村に私淑したことから「近江蕪村」の名でも呼ばれています。金谷が蕪村を敬愛していた例として、草津市中神コレクションの「石図」「波図」(蕪村の句「柳ちり清水かれ石ところところ」「春の海終日のたりのたりかな」を引用しています)、蕪村の「奥の細道図巻」(京都国立博物館蔵、重要文化財)をそのまま写した「倣蕪村奥之細道図」(京都国立博物館蔵)、2015年にサントリー美術館MIHO MUSEUMで開催された「若冲と蕪村」展において約90年ぶりに発見された与謝蕪村「蜀桟道図」(LING SHENG PTE.LTD蔵)を写した金谷の2点(「蜀桟道図」ファインバーグ・コレクション蔵、および「蜀道積雪図」大津市歴史博物館蔵)などを紹介しました。
 ところで、金谷はなぜこのように蕪村作品を写すことが出来たのでしょうか。
 金谷は、その生涯のうち約20年を名古屋で過ごしており、井上士朗をはじめとした尾張俳人たちと様々に交流をしていました。井上士朗は、与謝蕪村がその手紙の中で「尾張名古屋は士朗でもつ」とうたう程、俳諧では著名な人物であり、蕪村とも交流がありました。蕪村の「奥の細道図巻」は井上士朗と加藤暁台(井上士朗の師)宛の書簡の中に、近日中にそちらに送る、と出てくることから、名古屋にあった時期があることが解ります。また、蕪村の「蜀桟道図」も付属する書簡から名古屋に送られた作品であることが判明しています。このことから、金谷は名古屋において、蕪村の作品を直接見る機会を得、それらの作品を写していると想定されるのです。

 90分の講座でしたが、みなさん熱心に聞いてくださいました。ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。また、今回の講座から、県立図書館とコラボして、講座に関連する図書を会場でお手にとっていただけるよう配架するようにしました。


「書籍が置いてあって良かった」などのお声をいただくことができました。次回以降の「月刊学芸員」でも引き続き本の配架をしていきますので、どうぞお楽しみに。

 ところで、平成27年度に当館に寄贈された横井金谷「洛東春興図」は状態が悪く今まで皆さまに見ていただく機会を設けることが出来ずにいました。本年、この作品を修理することが叶い、現在、修理作業の真っ最中です。この「洛東春興図」の修理途中の様子を、修理工房さんにお邪魔して見学させていただく会(申し込みは締め切りました)も開催いたしますので、またブログ等で見学会の様子をレポートしたいと思います。

 知れば知るほど面白い、横井金谷の世界を、今後も折に触れてご紹介していきたいと思います。(Y.O)