常設展示「日本の前衛」の見どころ紹介(3)

ただいま開催中の常設展示「日本の前衛」の内容をご紹介するシリーズの第3弾。今回は60〜70年代以降の日本の現代美術界を彩った、さまざまな作家をご紹介いたします。


1960年代に入ると、現代美術の作家たちは平面や立体といったそれまでの美術表現に飽き足らなくなり、音や匂いを発する作品や既製品をそのまま利用した作品、廃物を利用した作品等を発表したり、さらには美術館を離れて街角でパフォーマンスを行うなど、新たな表現手段に果敢に取組むようになりました。前々回紹介した具体美術協会の作家たちや、前回紹介した篠原有司男も、そうした実験的な作品に挑んだ作家でした。今回ご紹介する「ハイレッド・センター」という前衛芸術グループもまた、東京の街角で数々の不穏なパフォーマンスを行って物議をかもすなど、精力的に活動したことで知られています。

ハイレッド・センター」は高松次郎(たかまつ・じろう)、赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)、中西夏之(なかにし・なつゆき)の3人の名字の最初の一字「高・赤・中」を英語読みしたものです。メンバーのひとり高松次郎ハイレッド・センターの活動の後も、遠近法を逆にした作品などコンセプチュアル・アート(概念芸術)色の強い「考えさせる」作品を発表していましたが、彼の名を不動にしたのは上の作品「影(母子)」をはじめとする、実体ではなくその影だけを画面に描く「影の絵画」のシリーズでした。そこにあるべきものが無い「不在」を表現したかのようなこのシリーズは、見る者に奇妙な不安と所在の無い焦燥感を与えます。現代における人間のあり方を皮肉に表現しているのかも知れませんね。

同じくメンバーのひとりであった中西夏之(なかにし・なつゆき)は、70年代以降絵画への回帰を叫び、白・紫・黄緑を基調とした清新な色彩による、独特の抽象絵画を描くようになりました。上の作品「アーク・エリプスE」(アークは円弧、エリプスは楕円形の意)は一見、とりとめの無い斑点が描かれているだけのように見えますが、よく見ると斑点は規則的に並んでおり、特に目立つ点を繋いでゆくと、画面全体に巨大な円弧が現れることがわかります。なお斑点の中には二つの線が「×」字形にクロスして表わされているものが多数ありますが、これは実はコンパスを使って正三角形を作図する時と同じように、カンヴァスから離れた場所に立った作家が、長い柄の先に取り付けた絵筆で、自分の腕をコンパスの腕のように動かして描いた軌跡になっています。つまり逆に言うと、画面に描かれた斑点は、画面の外にいる作者の位置と存在を示す指標になっているのです。このような思索的な絵画を、中西はその後も精力的に描き続けています。

韓国出身で日本を拠点に活動している李禹煥(リ・ウファン)もまた、コンセプチュアル・アート色の強い絵画を模索した作家です。彼は多摩美術大学斎藤義重(さいとう・よししげ)の教え子であった関根伸夫(せきね・のぶお)や菅木志雄(すが・きしお)らと共に、70年代初頭の「もの派」と呼ばれる運動を推進し、木や石、綿や鉄といった物質を巧みに組み合わせて観念性の強い作品を多数生み出しました。上の作品「点より」は李の代表的なシリーズの一点であり、画面左上から右に向かって、日本画の顔料による青い斑点がポンポンと繰り返し並べて打たれています。画面を見ていると時間の流れが感じられるようであり、作者がこの作品を制作するのにかかった時間がそのまま、作品の中にパッケージ化されて封じ込められているようにも感じられます。およそ古代から、時間の流れをどう表現するかというのは絵画芸術の大きなテーマでしたが、李は見事にこの課題に応えてみせたのです。

山田正亮(やまだ・まさあき)はさまざまにスタイルを変えつつ、独特の抽象絵画を模索している作家です。上の作品「Work D-274」はミニマル・アート(最小限芸術)色の強い時期の作品で、正方形が4マス×4マス並べられただけのシンプルな作品で、一見すると前回ご紹介した桑山忠明(くわやま・ただあき)のように、絵画を極限にまで切り詰めたギリギリの表現を目指しているように思えるかも知れません。しかし山田がこの作品で使用している色彩は、桑山のような人間性を厳しく拒絶する銀色や目に突き刺さる原色ではなく、日本的とも言える微妙な中間色です。名前をうまく呼ぶことすら難しい微妙な色彩ばかりを使用している点で、正統派のミニマル・アートとは異なっています。そして作品をよく観察すると、4×4の単純な画面の中に、横長の長方形、縦長の小さな長方形、そして十字型など、さまざまな形が巧妙に隠されていることに気が付きます。そう、山田の作品は一見シンプルでありながら、重層的で奥の深い構成を目指しているのです。

宇佐美圭司(うさみ・けいじ)も様々にスタイルを変えながら自分の表現を模索してきた作家で、60年代後半以降はロサンゼルスで起きた黒人暴動を捉えた報道写真に触発され、「たじろぐ人、かがみこむ人、走りくる人、投石する人」という4種の人型を幾何学的形態と組み合わせた洗練された半具象絵画を開拓しました。上の「遊星を追う」はそのスタイルに到達する以前の作品で、ほとんど白一色の画面に見えますが、実は画面内に小さな色点が無数に充満し、互いに打ち消し合うようにせめぎ合う濃密な画面になっています。そこからはさまざまな形が浮かび上がってくるようでもあり、こないようでもある。存在と非在の間で蠢く色点の群れは、悠久の星のまたたきの間に無数に生まれては消えてゆく人間存在のようなものなのかも知れません。

さて本展示では、会場の最後に現在活躍中の、滋賀県を代表する2名の現代作家の作品をご紹介しています。そのひとり岡田修二(おかだ・しゅうじ)は、滋賀県守山市に住み、1994年から大津市成安造形大学で教鞭を執るなど、滋賀県の美術界に大きく貢献している画家です。写真を元にして制作した彼の油彩作品は、図版で見ると一見巨大なモノクロ写真のように見えますが、近寄ってみると筆の跡がはっきりと確認でき、まぎれもない絵画であることがわかります。上の作品は教え子の顔のアップに顕微鏡写真のイメージを重ねた「Take #11」(テイク・ナンバー・イレブン)。小さな図版ではわかりにくいのですが、皮膚の細かな皺や毛穴までも克明に描写されており、グロテスクさすら感じさせる表現になっています。自分の顔を鏡でよく観察するとわかりますが、実は人間の肌は誰でもこの作品のように、皮膚の表面があばたや毛穴だらけでデコボコしています。けれどもふだん私たちはそんな細部にまで注意を払ってはおらず、目に映っていても見てはいないのです。こうした「見ているようで見えていないもの」の存在が、岡田の作品の大きなテーマになっています。われわれ人間は視覚に全幅の信頼を置いていますが、実は見えている、見えていないの差は極めて恣意的なものなのです。こうした視覚の欺瞞と不思議を通して人間の視覚の本質を問おうとしているのが、岡田の作品なのです。

上の作品「untitled」は1967年生まれのまだ若手の画家、伊庭靖子(いば・やすこ)の作品です。伊庭は京都の出身・在住ですが、開催中のもうひとつの常設展示「滋賀の洋画」で取り上げている近江八幡市出身の洋画家・伊庭伝次郎(いば・でんじろう)の孫にあたり、また大津市成安造形大学で教鞭を執るなど、滋賀県とも関わりが深い人物です。彼女の作品は岡田修二の作品と同様、写真を元にした絵画作品ですが、岡田とは異なり写真以上に光や、対象の質感を強調することで、現実の空間や時間から切り離された不思議な存在感を持った新たな物体を創造しようとしています。この作品も元は当館蔵の清水卯一(しみず・ういち)の陶芸作品を作家自身が撮影し、模写したものですが、モデルとなった陶芸作品の重厚な存在感は消え、代わりに光の中に溶けてゆくような神秘的で軽やかな存在感が与えられています。このように写真を元にしたフォト・リアリズムの作品でありながら、岡田と伊庭とでは目指す方向がまったく違うのが、現代絵画の面白いところですね。

このように今回の展示「日本の前衛」では、昭和から平成時代にかけての日本の現代絵画の流れが著名作家の代表作を通して概観できます。ぜひ企画展『近代の洋画・響き合う美』とともにご鑑賞下さい。


常設展示「日本の前衛」「滋賀の洋画」 1月21日(土)−4月1日(日)
観覧料(共通):一般 450円(360円)、高大生 250円(200円)、小中生 無料
( )内は20名以上の団体料金。
※日本美術の展示「滋賀の洋画」(1月21日(土)−4月1日(日))も同時にご覧いただけます。
※企画展「近代の洋画・響き合う美」(1月21日(土)−3月11日(日))の観覧券で、常設展もご覧いただけます。