常設展示「滋賀の洋画」の見どころ紹介(2)

1月21日(土)から始まる新しい常設展示「滋賀の洋画」「日本の前衛」のうち、《日本画・郷土美術》部門の展示「滋賀の洋画」の内容をご紹介するシリーズの第2弾です。前回取り上げた黒田重太郎(くろだ・じゅうたろう)に続き、今回は湖東出身の滋賀県随一の洋画家、野口謙蔵をご紹介いたします。

野口謙蔵(明治34(1901)年─昭和19(1944)年)は滋賀県蒲生郡桜川村綺田(かばた)(現在の東近江市)に、資産家の子息として生まれました。父方の伯母は明治・大正期に活躍した高名な南画家・野口小蘋(のぐち・しょうひん)で、謙蔵の実家には南画家・富岡鉄斎(とみおか・てっさい)をはじめとする京都の文化人がしばしば訪れるなど、文化的に恵まれた環境でした。画家を志した謙蔵は東京美術学校和田英作(わだ・えいさく)に就いて洋画を学びます。和田は黒田清輝(くろだ・せいき)と並ぶ外光派の旗手で、印象派の影響を受けた絶妙な光の表現を得意としていました。今回の展示では和田が教え子謙蔵の住む滋賀を訪れた際に彦根城を題材にして描いた作品「静かなる鳰(にお)の湖(うみ)」(写真上)も展示され、その技量をご覧いただくことができます。

東京美術学校卒業後、多くの友人たちが次々と渡欧するのを尻目に、謙蔵は「(渡欧しなくても)日本には美しい風景がある」と故郷近江に舞い戻り、そのまま滋賀に留まって、故郷蒲生野の自然や農村の人々の暮らしなどを題材にした作品を帝展に続々と出品し続けました。上の写真「庭」(昭和3年)は初の帝展入選作で、自宅の庭を舞台に、暑い夏の陽光の中、庭先にたたずむ少女を描いたものです。遠近感のはっきりした空間の中、ものの形は比較的写実的に描かれており、鮮やかな塀の黄色、うねるような曲線で描かれた植物の緑、むせかえるような夏の空気が見事に描き出されています。

謙蔵はその後、写実を離れて独自の装飾的な画風の開拓へと向かいます。上の写真「閑庭(かんてい)」(昭和8年)は「庭」と同じく自宅の庭をもとにした作品ですが、雰囲気はずいぶん違います。壺池は真上から見たような長方形で描かれ、影は省略され、草花は色の斑点と化し、少女の顔は表情すら判然としないものになっています。

さらに昭和10年の「夕日の家とひまわり」(写真上)では夕焼けを暗示する強烈なピンク色が画面に溢れ、思わず息を呑む色彩の奔流に画面が覆い尽くされています。この変化には、謙蔵が帰郷後、伯母小蘋の娘野口小螵(のぐち・しょうけい)や、日本画の世界に自然主義的写生画を持ち込んだ平福百穂(ひらふく・ひゃくすい)に就いて日本画を本格的に学んだことが生かされていると言われています。

さらに冬の農村の暮らしを描いた上の写真「冬日」では、掛け軸を思わせる縦長の画面に、南画風の力強くうねる曲線で風景が描かれています。よく見ると画面の下半分の風景は空を飛ぶ鳥のような高い視点から俯瞰的に描かれていますが、上半分は真横から見たように描かれており、2種類の視点が合成されていることがわかります。これは、例えば速水御舟の当館蔵の作品「洛北修学院村」(写真左)などにも共通して見られる日本画特有の表現法であり、謙蔵が日本画の手法を大胆に洋画に導入していることがはっきりと示されています。


昭和初期に活動を始めた謙蔵と同時代の洋画家たちは、いずれも西洋の模倣ではない、日本人にしか描けない「日本的洋画」の創出を目指して苦闘を続けていました。そしてそれぞれの画家たちが異なる結論に到達し、昭和期の洋画界をおおいに盛り上げることになったのです。例えば戦後の梅原龍三郎(うめはら・りゅうざぶろう)は琳派の影響を受けた絢爛豪華な装飾的世界を、坂本繁二郎(さかもと・はんじろう)は禅の美術を思わせる内省的で幽玄な画風を開拓しましたが、野口謙蔵は日本画(特に南画)の影響を受けたダイナミックな装飾的画面と、日本画の構図法の借用というかたちで自らの世界を切り拓いたのです。

野口謙蔵の魅力は、なにも日本画的な要素ばかりではありません。「冬日」の中に描かれた農民たちの姿(荷車を引く農夫や、川で洗濯をする婦人、野菜を干す少女、祠に手を合わせる少女など)に見られるように、故郷蒲生野の素朴な人々の暮らしや、生き物たちの姿に注ぐ限りない愛情にも心に響くものがあります。上の写真「ヒヨドリ」は葉むらの中に群がる野鳥たちの姿を生き生きと捉えた作品で、小動物に寄せる謙蔵の暖かい目を感じることができます。

残念ながら野口謙蔵の名は、梅原や坂本ほど有名ではありません。昭和9年に東光会を結成し後進の育成にもあたったものの、戦後を待たず昭和19年に43歳という若さで夭折したこと、そして中央から遠い滋賀の地を活動の拠点としていたことなどが災いし、野口謙蔵の名前はごく近年までは知る人ぞ知るという存在でした。しかし近年になって「日本的洋画」の再評価とともに謙蔵の評価も進み、今では日本的洋画の開拓者のひとりとして各方面から注目を集めるようになっています。郷里蒲生野には生家を改装した「野口謙蔵記念館」が建てられ、その画業を偲ぶことができます。


今回の展示「滋賀の洋画」では野口謙蔵の作品6点をご覧いただけるほか、大津市出身で関西昭和洋画壇の重鎮であった黒田重太郎(くろだ・じゅうたろう)の作品群や、彼らの師であった和田英作鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)の作品、京都における印象派の先駆者太田喜二郎の作品をはじめ、滋賀県彦根市出身で黒田重太郎らに学んだ秋口保波(あきぐち・やすなみ)、野洲市出身の鷲田新太(わしだ・あらた)、大津市出身の三田康(さんた・やすし)、近江八幡市出身の伊庭伝次郎(いば・でんじろう)、彦根市出身の島野重之(しまの・しげゆきといった滋賀県出身の洋画家たちや、岐阜県出身で彦根漁港の風景を描き続けた島戸繁(しまど・しげる)、朝鮮の生まれで現在の高島市に住んで活躍した全和凰(チョン=ファハン)、現代京都の洋画家安田謙(やすだ・けん)ら、滋賀県にゆかりの深い画家たちの作品を一堂に展示し、滋賀県洋画壇の精華をご紹介いたします。この機会に郷土が生んだ洋画家たちの饗宴をぜひご覧下さい。


常設展示「滋賀の洋画」「日本の前衛」 1月21日(土)−4月1日(日)
観覧料(共通):一般 450円(360円)、高大生 250円(200円)、小中生 無料
( )内は20名以上の団体料金。
※現代美術の展示「日本の前衛」(1月21日(土)−4月1日(日))も同時にご覧いただけます。
※企画展「近代の洋画・響き合う美」(1月21日(土)−3月11日(日))の観覧券で、常設展もご覧いただけます。