秋の常設展「横山大観と仲間たち」の名品から その2

常設展示室の《日本画・郷土美術》部門の展示室から、現在展示中の「当館を代表する名品」を順次ご紹介してゆくシリーズの第2弾。
今回は大正から昭和にかけて活躍した歴史画の大家・安田靫彦(ゆきひこ)の「卑弥呼」(1968)です。


安田靫彦(1884-1978)は東京・日本橋に生まれ、14歳で小堀鞆音(ともと)に師事しました。今村紫紅らが参加した若い画家たちのグループ「紫紅会(のちに紅児会)」で活躍した後、大正3年の日本美術院の再興に参加し、以後は院展を舞台に活躍して大正・昭和期の院展を代表する存在となりました。その作風は盟友の小林古径前田青邨らと同様「新古典主義」と呼ばれ、日本古来のやまと絵に学んだ張りのある描線と、鮮やかな色彩感覚に特徴があります。
靫彦は歴史画、なかでも実在の人物を描いた歴史人物画を特異とし、この作品「卑弥呼」や、当館のもうひとつの名品「飛鳥の春の額田王」など、現実感あふれる表現で歴史上の偉人たちを数多く描きました。卑弥呼額田王も、肖像画を残しておらずその風貌については謎の人物です。けれども靫彦は歴史考証を駆使して、日本人にとっての卑弥呼額田王のまさに決定版とも言うべきイメージを作り上げたのです。

この作品「卑弥呼」は、言うまでもなく日本の古代史に登場する邪馬台国の女王・卑弥呼を描いたものですが、邪馬台国はそれがどこにあったが未だ判然とせず、九州説と畿内説という2つの立場に分かれて学者たちが論争を続けています。ではこの作品は、九州説、畿内説、いずれの立場に立って描かれたものでしょうか?

答えは「九州説」です。卑弥呼の背後に描かれた5つの山は、かなり単純に図案化されていますが、阿蘇山の外輪山の中にある「阿蘇五岳」です。この作品において靫彦は、卑弥呼を火の山阿蘇に仕える火の巫女として表現しているのです。

では靫彦は、邪馬台国九州説にのみ組みしていたのでしょうか。実はそうではなく、この作品の4年後の1972年に、彼は今度は畿内説に基づいた別の作品「大和のヒミコ女王」(上図)を描いています。こちらは大和の象徴である三輪山をバックに、巨大な絹笠を被った姿で卑弥呼を描いた作品です。面白いことに、どちらの卑弥呼も同じ形の玉杖を手に持ち、そして同じ顔立ちで描かれています。

卑弥呼の顔立ちは、切れ長の細い目とすっきり通った鼻筋、おちょぼ口が特徴的です。これは縄文人系ではなく、いわゆる弥生人(渡来人)系の顔立ちです。
卑弥呼の身体は正面(鑑賞者の方)を向いていますが、その目はこちらに向けられているというより、何か考え事をしているかのようです。厳しい表情ですが、冷たい感じはせず、思慮深く頼りになる神秘的な女王という雰囲気が、その表情にも見事に表されています。
現実の卑弥呼はかなりの高齢だったらしいと考えられていますが、靫彦はあえて卑弥呼を、年齢不詳とも言える姿で描きました。恰幅の良い体形は壮年を思わせますが、あえて年齢を特定させない姿で描いたのは、卑弥呼の神秘性を強調するためでしょうか。

また卑弥呼の持ち物も、慎重に選ばれて描かれています。手に持った玉杖は実は、4世紀の古墳から実際に発掘された、呪術に使われたとおぼしき玉杖をそのまま借りてきて描き込んだものです。王の権威を杖で表現するのは古今東西よくあることですが、それを呪術用の杖に変えることによって、王権と共に神秘的な呪力を備えた卑弥呼女王の複雑な存在が、見事に絵で表現されているのです。
杖だけでなく、鳳凰の冠、勾玉の首飾り、そして双魚紋の衣装など、安田靫彦は歴史資料を駆使して考証を重ね、いかにも卑弥呼がまとっていたに違いないファッションを見事に作り上げて、私たちの前に提示しています。
このように細部を見てゆくと、この作品が教科書などで卑弥呼を描いた絵の代表として取り上げられている理由が、よくわかる気がしますね。

本作「卑弥呼」は、10月31日(日)まで常設展示室で公開中です。


常設展示「横山大観と仲間たち」 8月31日(火)−10月31日(日)
観覧料(共通):一般 450円(360円))、高大生 250円(200円)、小中生 無料
 ( )内は前売および20名以上の団体料金。
※常設展示「赤と黒」(8月31日(火)−12月19日(日))と併せてご覧いただけます。
※企画展の観覧券で常設展も観覧できます。