「色と墨のいざない−出光美術館コレクション展−」の見どころ紹介 その3


開催中の企画展「色と墨のいざない−出光美術館コレクション展−」の見どころに紹介するシリーズの、第3回です。今回は本展のテーマ「色と墨」のうちの「墨」、即ち「水墨画」の歴史について、詳しくお話ししたいと思います。

水墨画は唐の時代の中国で生まれ、鎌倉時代禅宗と一緒に宋の国から日本に伝えられました。最初の水墨画は禅僧たちによって、理想風景を描いた水墨画の中に僧侶たちが漢詩を次々に書き込む「詩画軸」といったかたちで発展されました。

やがて武家社会の発展とともに、禁欲的で精神性の高い禅宗が武士階級に受容されてゆくのに伴い、水墨画も将軍家をはじめとする武家の間に浸透してゆきます。とりわけ足利将軍家のいわばアートコーディネーターとして、和歌や茶の湯など芸術作法を指南する役目であった同朋衆の中から、能阿弥(のうあみ)、芸阿弥(うんあみ)、相阿弥(そうあみ)ら「阿弥派」と呼ばれる人々が現れ、室町水墨画を大成させます。上の図版は相阿弥の「瀟湘(しょうしょう)八景図」の部分図(煙寺晩鐘?)ですが、濃い墨と薄墨を巧みに使い分けて遠近感や空気を表現する水墨画の技法が見事に用いられています。

そして室町時代から桃山時代にかけて、水墨画室町幕府の御用絵師を勤めた狩野派(かのうは)の絵師たちによって、完成形を見ます。上の写真は狩野派2代目の狩野元信の印がある「花鳥図屏風」(部分)ですが、繊細かつ平明な描線を連ねて臨場感溢れる、迫力ある風景画を作り上げていることがわかります。

江戸時代に入ると、狩野探幽によって「江戸狩野様式」という新たな様式が打ち立てられます。右は探幽筆の「叭々鳥(ははちょう)・小禽図屏風」(部分)ですが、先の「花鳥図屏風」と比べてもわかる通り、余白を重視し、最低限のタッチで壮大なスケールを感じさせる瀟洒な画風が特徴的です。江戸狩野派の絵師たちは流派内で様式の統一化を図ったこともあって、大人数の弟子たちを使った作品の大量生産が可能になり、江戸狩野は大名屋敷や寺社仏閣などの障壁画の仕事を独占し、たちまち画壇の覇者となりました。その一方で画一化された様式は形骸化も生み出し、その息苦しさから逃れて新しい画風を開拓しようとした画家たちも現れました。

探幽は水墨画だけでなく、やまと絵の研究なども熱心に行いました。江戸時代以降は水墨画とやまと絵が互いに影響を及ぼしあって発展した時代です。例えば上の図版は前回も紹介した復古大和絵派の冷泉為恭(れいぜいためちか)の「雪月花図」(部分)ですが、山水の描き方には明らかに水墨画の影響が見られます。


さて江戸時代中期に、中国から新しい水墨画の様式が伝わりました。中国では職業画家によって描かれた絵を北宗画と呼んだのに対し、プロの画家ではない文化人(文人)が手すさびに描いた作品のことを南宗画(南画)、もしくは文人画と呼びました。文人画はテクニックの巧みさや写実性などは気にせず、心の赴くままに描く自由な画法を特徴とし、独特の味わいがあります。
日本では江戸中期に長崎に滞在した清の画家・沈南蘋(しんなんぴん)によって、中国の新しい絵画が日本の画家たちに紹介されたのがきっかけとなり、池大雅与謝蕪村らによって文人画の普及がはかられました。
右の図版は池大雅の「秋杜之図屏風」(部分)ですが、写実的ではないけれども味のある葉っぱの表現や、ユーモラスな人物表現などに、文人画の特徴がよく表れています。

文人画は全国各地の文化人たちに受容されたことで急速に全国に普及し、多くの作品が描かれました。一方で濫作は形骸化という弊害も招き、それに反発するように幕末に現れた富岡鉄斎は、上の図版「柳塘銷夏図」(部分)にも見られるような奔放な独自の感性で文人画に取り組み、近代という時代にふさわしい新しい文人画を開拓するに至りました。


「色と墨のいざない−出光美術館コレクション展−」
会期:9月11日(土)−10月11日(月・祝)
観覧料:一般 950円(750円))、高大生 650円(500円)、小中生 450円(350円)
    ( )内は前売および20名以上の団体料金。
企画展の観覧券で常設展「横山大観と仲間たち」「赤と黒」も観覧できます。